餅菓子屋として開店した下諏訪の福田屋
福田屋の歴史は1918(大正7)年、初代・佐野竹一が下諏訪に店を構えたことに始まります。
竹一の家族は、諏訪が製糸業で全盛をきわめるなか、静岡県富士宮市から一家で諏訪に移住してきました。
その頃の諏訪は東洋の製糸産業の中心として栄えていました。
初代竹一が「福田屋」から独立
小学生の竹一は家計を支えるため、茅野の福田屋に奉公に出ます。
年季を終え、いよいよ下諏訪に福田屋ののれん分けのかたちで店を開店。餅菓子屋としておもに大福餅を売っていました。
当時の店の前には、諏訪大社下社に詣でる人たちの最終のバス停があり、多くの参拝客で賑わったそうです。当時を知る年配の方は「福田屋の大福餅は大きかった! 一貫目はあった!」と言うそうです。一貫目はないにせよ、そんなふうに記憶に残るほど人々には、福田屋の大福餅はおいしく、大きかったのです。
そんな折、茅野の福田屋本店が閉店となり、本店の継承をまかされました。
戦後の混迷期、養蜂に活路を見いだした二代目文弘
1937(昭和12)年、支那事変が始まり、竹一も召集され戦地に赴きます。
また、充敬(みつのり)は店の常連のおじいさんの戦友から、戦地での話をよく聞いたそうです。
戦後、2代目文弘は厳しい配給統制のなか苦心して菓子作りを続けます。その頃、養蜂に力を入れるようになったのです。蜂蜜は当時、本当に貴重なものでした。
その後、諏訪大社の神事・御射山祭での神職であった「古生会」の一員であった福田屋が、何か御射山祭でのお祭りのお土産にしようと考案されたのが「御射山餅」です。
原点は竹一の母が静岡県の安倍川餅名産の生まれで、竹一の原点の味わいだったことがルーツになります。
福田屋の代名詞となる御射山餅はこの時に生まれたのです。
伝統を守りながら、新しい試みに挑戦
3代目充敬は、製菓学校を卒業後、青山の名店で修行を積み福田屋に戻ってきます。
福田屋伝統の技と青山で修行したアイデアをいかし、「御柱街道」をはじめ「生クリーム大福」など次々に新しい商品を生み出しました。
福田屋の伝統を守りながら、新しい試みにもチャレンジしています。